03で一番効いたのは、教えること。教えるには、伝える手段が要る。ネズミにとって、それは声。
では、その声は何を運ぶのか。言葉ではない。ネズミの声は、文や命令ではなく、気分、つまり情動状態と状況を運ぶ。次の装置では、実際のネズミの声をできるだけ本物に近づけて作り、それが何を伝えて、何を伝えないのかを見る。
ネズミの声を、本物に近づける
これまで、群れの中の「声」は、ただの記号。危険を表す合図が一つあるだけ。本物のネズミの声は、もっと構造を持っている。だから、文献に書かれた特徴に合わせて作り直す。
ネズミの声は、人の耳にはほとんど聞こえない超音波*。大きく二つの帯域に分かれる。低いほうの22kHz*は、長くて平らな声で、痛みや危険のときに出る。高いほうの50kHzは、短くて音程が動く声で、仲間といるときや遊んでいるときに出る。前者は「嫌だ」の声、後者は「楽しい」の声。
高いほうの声には、さらに細かい型がある。平坦、上がる、下がる、山なり、震える、と10種類ほどの「音節」。声は、でたらめには並ばない。ある音節の次に来る音節には、偏りがある。ゆるい文法のようなもの。文献の統計をなぞると、私のモデルでも同じ特徴が出た。声は二つの帯域にきれいに分かれ、嫌悪の声は長く(中央値でおよそ900ミリ秒)、快の声は短く(およそ40ミリ秒)、音節の並びはランダムより秩序がある(遷移のばらつきは2.45で、シャッフルした3.20より小さい)。
声は、情動状態を運ぶ
大事なのは、何を運んでいないか。この声は、言葉ではない。「右にヘビがいる」のような、中身のある文は運ばない。運ぶのは、送り手の状態。怖がっているのか、落ち着いているのか。聞いた側は、その情動状態を読み取って反応する。22kHzを聞けば逃げ、50kHzを聞けば近づく。中身を読むのではなく、相手の状態を察する。
function speak(self)
# 声は内部状態(情動)から出る。命題ではない。
band = self.valence < 0 ? "22kHz" : "50kHz"
return Call(band=band, syllable=pick_syllable(self))
end
function hear(self, call)
# 聞いた側は、中身ではなく相手の状態に反応する
call.band == "22kHz" ? flee!(self) : approach!(self)
end
人の言葉と比べると、薄く見えるかもしれない。それでも、これで多くのことができる。危険が群れの中を一瞬で伝わり、安心が場の空気を作る。
これは本物のネズミの音声をそのまま再現したものではない。文献の統計的な特徴に形を合わせただけで、実際の鳴き声を合成しているわけではない。それに、モデルにしたのは、ネズミの情動状態であって、思考ではない。声から読めるのは状態であって、頭の中ではない。声が運ぶのは情動と文脈。意味や文化は、その上に積み上がる。
声は、文化の伝達手段になった。教える声、警告する声、群れをそろえる声。その手段に乗っているものは、どれくらい丈夫なのか。教える側がいなくなったとき、声に乗っていた知識はどうなるのか。次の装置では、崩壊のときに本当に失われるものを見る。
補足
- 超音波発声(USV): ネズミが出す、人にはほとんど聞こえない高い周波数の声。録音して周波数を下げると聞こえる。
- 22kHz / 50kHz 帯: 22kHz は長く平らで嫌悪や警報のとき、50kHz は短く音程が動き、社会や遊びのときに出る。Brudzynski や Panksepp による整理に基づく。